白仁天(はく じんてん、ペク・インチョン) 外野手・捕手 東映フライヤーズ
外野手(中堅手・左翼手・右翼手)・捕手・内野手(一塁手)・指名打者(DH) 右投右打 東映・日拓・日本ハム→太平洋→ロッテ→近鉄→MBC青龍→三美
京東高→韓国農業銀行 社会人 ドラフト6位 1962年~1981年
東映フライヤーズ、日拓ホームフライヤーズ、日本ハムファイターズ:1962年~1974年 太平洋クラブライオンズ:1975年~1976年 ロッテオリオンズ:1977年~1980年 近鉄バファローズ:1981年 MBC青龍:1968年~1983年 三美スーパースターズ:1983年~1984年
韓国プロ野球界の重鎮
1962年(1年目)
.--- -本 -打点 -盗塁 0試合
ポ |
選手名 |
右巧 |
左巧 |
長打 |
走力 |
送球 |
捕球 |
肩力 |
リ |
捕 |
一 |
二 |
三 |
遊 |
左 |
中 |
右 |
捕 |
白 |
20 |
25 |
45 |
75 |
30 |
30 |
70 |
1 |
30 |
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1965年
.267 14本 44打点 9盗塁 116試合
ポ |
選手名 |
右巧 |
左巧 |
長打 |
走力 |
送球 |
捕球 |
肩力 |
リ |
捕 |
一 |
二 |
三 |
遊 |
左 |
中 |
右 |
捕 |
白 |
48 |
53 |
69 |
75 |
30 |
30 |
70 |
3 |
55 |
20 |
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|
|
40 |
50 |
35 |
1972年
.315 19本 80打点 20盗塁 126試合
ポ |
選手名 |
右巧 |
左巧 |
長打 |
走力 |
送球 |
捕球 |
肩力 |
リ |
捕 |
一 |
二 |
三 |
遊 |
左 |
中 |
右 |
中 |
白 |
66 |
71 |
74 |
70 |
50 |
45 |
65 |
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|
|
|
|
|
60 |
75 |
50 |
1975年(太平洋)
.319 16本 53打点 13盗塁 102試合
ポ |
選手名 |
右巧 |
左巧 |
長打 |
走力 |
送球 |
捕球 |
肩力 |
リ |
捕 |
一 |
二 |
三 |
遊 |
左 |
中 |
右 |
中 |
白 |
68 |
73 |
72 |
65 |
45 |
50 |
60 |
|
|
|
|
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|
55 |
75 |
50 |
1979年(ロッテ)
.340 18本 71打点 3盗塁 124試合
ポ |
選手名 |
右巧 |
左巧 |
長打 |
走力 |
送球 |
捕球 |
肩力 |
リ |
捕 |
一 |
二 |
三 |
遊 |
左 |
中 |
右 |
左 |
白 |
79 |
82 |
73 |
55 |
70 |
45 |
60 |
|
|
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|
45 |
30 |
30 |
トータル
1972年ベース
ポ |
選手名 |
右巧 |
左巧 |
長打 |
走力 |
送球 |
捕球 |
肩力 |
リ |
捕 |
一 |
二 |
三 |
遊 |
左 |
中 |
右 |
中 |
白 |
66 |
71 |
74 |
70 |
50 |
45 |
65 |
1 |
35 |
( 20) |
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|
|
60 |
75 |
50 |
通算成績
1962年~1981年
.278 209本 776打点 212盗塁 104盗塁死 出塁率.316 1969試合
タイトル
首位打者1回
表彰
ベストナイン1回
記録
特になし
総評
俊足巧打型外野手。
高い打撃力と俊足で活躍した外野手。
守備位置は1965年まではキャッチャー、1966年から1976年はセンター、1977年・1978年は指名打者兼レフト、1979年からはレフト。
コンバートは捕手→中堅手→左翼手。
犠打はそこそこあり、最多は12。
盗塁は結構多く、盗塁成功率はやや低い。
四球は非常に少なく、三振は非常に少ない、出塁率は低い。
併殺打は非常に多く。
死球数は普通。
極端な早打ち傾向の積極打法で、四球・三振が極端に少ない。
1972年は四球35・三振32と、四球はやや少なく三振はかなり少ない。
併殺打が15前後の年が多く、通算225併殺打と非常に多い。
愛称は特になし。
俊足巧打の中堅手として活躍。
1965年までは捕手として活躍し、1965年は116試合に出場し14本塁打を打つ。
1966年から中堅手に転向し、長年にわたり主力として活躍。
1975年に東田正義との交換トレードで太平洋に移籍。
1975年は打率.319で「規定打席ちょうどの首位打者」になる。
1977年に「白・安木祥二」⇔「長谷川一夫、倉持明」との交換トレードでロッテに移籍。
1981年に近鉄に移籍し、オフに退団。
1982年に韓国リーグに移り、打率.412で韓国プロ野球の初代首位打者になり、.412は韓国プロ野球史上シーズン最高打率で、唯一の4割打者。
1984年に引退。
引退後はLGツインズ、三星ライオンズ、ロッテ・ジャイアンツの監督を務めている。
主に3番打者、5番打者、6番打者として活躍している。
背番号は68→41→7→6→9→2→22で、1967年から1974年は「7」。
外国人枠に含まれない選手。
実働19年で3割以上は3回で、普段は.280前後が多いが突如打ちだすことがある。
20盗塁以上を3回、1969年に最多三塁打(三塁打9)と足が速いが、併殺打は極端に多い。
失策数はやや多く、守備は不安定。
--年度選択・チーム選択について--
正直かなり悩みました。
1972年・1975年・1979年どの年も素晴らしい。
それが3チームにまたいでいるなんて。
1975年は首位打者を獲得していますが、他が物足りない。
1979年は打撃成績は抜群ですが、規定打席に未到達で打撃以外はかなり劣化しています。
結局バランスを取ると1972年なのかなぁと思います。
1972年は在籍期間の長い日本ハムですし、いろいろと丁度いいかなぁというところです。
更新情報
歴代全盛期 チーム別データ
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