藤村富美男(ふじむら ふみお) 内野手・外野手 大阪タイガース
内野手(三塁手・二塁手・一塁手)・外野手(右翼手・左翼手・中堅手) 右投右打 大阪タイガース
旧制呉港中 中学 1936年~1938年、1943年~1956年、1958年
大阪タイガース・阪神軍・大阪タイガース:1936年~1938年、1943年~1956年、1958年
1936年(春夏)(1年目)
.297 0本 5打点 1盗塁
ポ |
選手名 |
右巧 |
左巧 |
長打 |
走力 |
送球 |
捕球 |
肩力 |
リ |
捕 |
一 |
二 |
三 |
遊 |
左 |
中 |
右 |
投 |
藤 村 |
50 |
55 |
50 |
65 |
30 |
15 |
70 |
|
|
|
40 |
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|
1949年
.332
46本 142打点 12盗塁
ポ |
選手名 |
右巧 |
左巧 |
長打 |
走力 |
送球 |
捕球 |
肩力 |
リ |
捕 |
一 |
二 |
三 |
遊 |
左 |
中 |
右 |
三 |
藤村富 |
72 |
77 |
90 |
60 |
55 |
25 |
65 |
|
|
35 |
50 |
70 |
50 |
35 |
30 |
40 |
1950年
.362 39本 146打点 21盗塁
ポ |
選手名 |
右巧 |
左巧 |
長打 |
走力 |
送球 |
捕球 |
肩力 |
リ |
捕 |
一 |
二 |
三 |
遊 |
左 |
中 |
右 |
三 |
藤村富 |
85 |
85 |
86 |
60 |
60 |
35 |
65 |
|
|
35 |
50 |
75 |
40 |
35 |
30 |
40 |
1953年
.294
27本 98打点 1盗塁
ポ |
選手名 |
右巧 |
左巧 |
長打 |
走力 |
送球 |
捕球 |
肩力 |
リ |
捕 |
一 |
二 |
三 |
遊 |
左 |
中 |
右 |
一 |
藤村富 |
54 |
59 |
78 |
50 |
50 |
40 |
55 |
|
|
50 |
40 |
55 |
|
35 |
30 |
40 |
トータル
1950年ベース
ポ |
選手名 |
右巧 |
左巧 |
長打 |
走力 |
送球 |
捕球 |
肩力 |
リ |
捕 |
一 |
二 |
三 |
遊 |
左 |
中 |
右 |
三 |
藤村富 |
85 |
85 |
86 |
60 |
60 |
35 |
65 |
|
|
50 |
50 |
75 |
40 |
40 |
35 |
45 |
通算成績
1936年~1938年、1943年~1956年、1958年
.300 224本 1126打点 103盗塁 103盗塁死 出塁率.374 1558試合
タイトル
首位打者1回
本塁打王3回
打点王5回
最多安打2回
表彰
最優秀選手1回(1949年)
ベストナイン6回
記録
サイクル安打2回
三塁手シーズン刺殺209(1950年)(日本記録)
三塁手シーズン補殺484(1950年)(セ・リーグ記録)
三塁手シーズン併殺60(1950年)(セ・リーグ記録)
三塁手シーズン守備機会728(1950年)(日本記録)
総評
万能型内野手兼投手。
日本プロ野球を代表する伝説の強打者で、投手としても活躍したスーパースター。
守備位置は入団当初は投手兼二塁手、投手兼二塁手兼外野手、1943年は二塁手、1944年から1952年まで三塁手、1953年からは一塁手。
コンバートは投手→二塁兼外野→二塁→三塁→一塁。
犠打は少なく、最多は3。
盗塁はそこそこあり、盗塁成功率は普通(1950年は非常に高い)。
四球は結構多く、三振は少ない、出塁率はそこそこ高い。
併殺打はやや多い。
死球数は普通。
愛称は「初代「ミスタータイガース」」、「フジさん」。
あらゆるポジションを守り、圧倒的な打撃力、華麗な守備でファンを魅了するスーパースター。
本塁打王創設後の初代本塁打王に輝くなど、プロ野球リーグ開始初期から活躍。
1947年から不動の4番打者となり、史上最強といわれた「ダイナマイト打線」を象徴する選手となる。
長尺バットを用い、「物干し竿」と呼ばれ、赤バットの川上哲治、青バットの大下弘と共に本塁打を量産した。
1949年は前年の13本塁打から大きく成績を伸ばし、46本塁打で本塁打王になるなど、打率・本塁打で圧倒的な数字を残すようになる。
1955年から選手兼任監督となり、1956年に一時引退するが、1958年に復帰するがほとんど出場の無いまま引退。
2000年に引退。
引退後は解説者や評論家、国鉄、東映でコーチを務めている。
観客に対するファンサービスなど、エンターテインメント性を見せる選手として人気があった。
打撃は圧倒的な成績を残し、数々のタイトルを獲得している。
走塁では本塁での捕手への体当り第1号の選手といわれている。
守備では当時はほとんど右打ちプルヒッターということもあり、全体で見ても三塁の守備機会がかなり多い。
他の選手と比べても守備機会が多く、守備範囲は広い。
ただし、1949年から1951年まで3年連続30失策以上、7年連続20失策以上、通算284失策は見逃せない。
当時の環境的にしかたないし、全体の守備率も低いが、守備技術は現代とは次元が違うもの。
捕球値などは極端に下げざるを得ない。
ただし、打球を素手で取るプレー(ベアハンドキャッチ)などをして「猛人藤村」と言われていた。
主に4番打者として活躍している。
背番号は「10」。
更新情報
2016/2/4 覚醒能力大幅修正 右巧打84→85 左巧打89→90 長打85→86 送球40→60 捕球20→35
一塁45→50 二塁50→55 三塁60→75 遊撃30→45 左翼30→40 右翼35→45
歴代全盛期 チーム別データ
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